死ぬことと見つけたり

死ぬことと見つけたり(上) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(上) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

上下巻を再読した。
やはり面白い。2回目なのにまた熱中して読み切った。

本書は隆慶一郎の作品であり、葉隠をもとにした物語であり、上下巻が出ているが下巻は未完の作品である。
斎藤杢之介、中野求馬、牛島萬右衛門ら3人の物語である。

彼ら3人は本当に魅力にあふれており、その姿に痺れる。そして、その在り方に思わず身震いする。
その在り方の根っこにあるのは、杢之介の毎朝の日課にある。
まず毎朝、入念に死んでおくのである。できる限り事細かに、詳細に、リアルにである。

不思議なことにこと、朝これをやっておくと、身も心もすっと軽くなって、一日がひどく楽になる。考えてみれば、寝床を離れるとき、杢之介はすでに死人なのである。死人に今更なんの憂い、なんの辛苦があろうか。(中略)まるですべてが澄明な玻璃の向うで起こっていることのように、何の動揺もなく見ていられるのだった。おのれ自身さえ、その玻璃の向うにいるかのように、眺めることができる。

これをやっているからこそ、何の憂いもなく決断行動できるのだろう。
吉原でガラの悪い旗本連中がわざとぶつかってきて、因縁を吹っ掛けてきたときもそうだ。佐賀藩と己に対する侮蔑ととれる言葉を相手が言おうとした瞬間、杢之介は切った。そしてそれと同時に萬右衛門、求馬も切った。この一悶着は吉原の惣名主、庄司堪右衛門が仲裁を行い、杢之介を気絶させ治まった。気を覚ましてから杢之介はこの惣名主に2,3言ほど述べ関心した後、「水を浴びたいな」と述べる。将軍家の直臣を切ったため、死ぬために身を清めたいということだ。この潔さ。もちろん萬右衛門はすでに身を清めていた。

この鍋島武士らしい2人に比べて求馬は少し毛色が違って描かれている。
これは求馬の父の影響が強いのだろう。求馬の父は殿様に嫌われることばかり執拗に言い続けて、最後はそれが原因で腹を切った。

お前は武士の本文とは何だとおもっているのだ、と父が咎めるように云った。戦って死ぬことです、と求馬は答えた。それだけじゃ返事にならん。もっと具体的に云ってみろ。合戦で死ぬことです。求馬は叫んだ。可哀そうにな。お前は終世満足できないだろう。なぜならこれから先、少なくともお前の生きている間は、合戦なんかは起こりはしないからだ。合戦がなかったら、お前はどうするんだね。求馬は言葉につまり、父を睨んだ。
「武士の本分とは……。」
父が云った。奇妙にもどこか楽しそうだった。
「殿に御意見申し上げて死を賜ることだ」

もちろん合戦を望めるときに生きているのであれば、はじめに求馬が述べた武士の在り方でも父は否定しなかっただろう。しかし、そういう時代ではないと冷静に見つめた上で、どうすることが殿の、自分の藩のためになり、そして自分の在り方として満足できるものか考えた上で、実際に藩のためになることを述べ、自分の満足する生き方をして、死んでいく。そのためには殿に意見を申し上げる立場まで出世をしなければならない。立身出世といえば、己の欲を満たすような行為であり、武士としては見苦しい面がある。しかし求馬の父は

「わしは明けても暮れても、立身出世のことばかり考えて来た。気の遠くなるような、長い、辛い道だった。だが、見ろ。今日、わしは本望かなって、無事に武士の本分を果して死んでゆく。これほどの死がまたとあろうか。わしは天下の幸せ者だ。」

と述べて、心底幸せそうに死んでいった。そして、求馬は知らず知らずのうちに自分もそうやって死のうと考え、立身出世を果たした。
下巻でも、求馬がどうやって死ぬかは著者によっては描かれていない。しかし著者が残していた、粗筋には家法にてらすと大罪であることを犯し、藩のために死んでいったようだ。

この物語で描かれている3人は本当に魅力的で、いつまでもこの3人の姿を見ていたかった。
誰よりも死ぬことを恐れていない3人の死ぬ姿は本書では描かれていなかったが、描く必要もないほど本書を読んだ人の頭に魅力的な死人の姿を描いてくれた。