地下室の手記

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

【目次】
1 地下室
2 ぼた雪に寄せて

  • 読もうと思ったきっかけ、目的

何か陰鬱な気分だったので、その気分にあわせたかったんだと思う。
もしくは浸りたかったというか。

  • 目的に対してこの本の評価

もちろんそんな気持ちにもなれたが、そんなもので収まるもんではなかった。

  • 本としての評価

もう一度、時間をおいてから読み直してみたい。
今はただ、いくつか引用を残しておく。


以下、本文中より抜粋。

俺は病んでいる……。ねじけた根性の男だ。人好きがしない男だ。どうやら肝臓を痛めているらしい。
(1ページ)

俺は意地悪な人間になれなかっただけじゃない。何者にも――意地悪にも、善良にも、てのつけられないろくでなしにも、正直者にも、英雄にも、虫けらにさえ、なりえなかった。今じゃとうおう、俺の居場所と思い定めたどん詰まりのすみっこに引き籠もったきり、「賢い人間ならおよそ、まともな何者かになれるはずがない、何者かになりうるのは愚か者だけだ」という、ねじけた愚にもつかない慰めを口にしては、己をなぶりものにしている。
(12-13ページ)

たとえ人間のしていることと言えば、ただ一つ、二、二が四を捜し求めることであり、そのためには大洋を渡り生命を犠牲にすることも厭わないとしても、実際にそれを見つけ出してしまうことは、確かになぜか恐れているのだ。見つけ出してしまったら、もう何もすることがなくなると察しているからだ。
(68ページ)

あんた方は、永久に揺るぎない水晶宮、こっそりアカンベエと舌を突き出したり、ひそかに手で侮辱のしるしを作ってみせたりすることが許されない水晶宮の存在を信じている。俺はこの建物を怖れているが、その理由はもしかすると、これが水晶で出来た揺るぎない建物であり、こっそりとでさえも、これに対して舌を突き出したりできないからかもしれない。
(71ページ)

とどのつまりは、君たち、なにもしないほうがいいのさ!意識的な無気力のほうがマシだ!だから、地下室、万歳!というわけである。
(75ページ)

ある晩、一軒の居酒屋のそばを通りかかったとき、灯りのついた窓の中をふと見ると、ビリヤード台の周りで、キューを持った客たちが、つかみ合いの喧嘩をしたあげく、一人の男を窓の外にほっぽり出した。他のときなら、俺は、実に不愉快極まりない気分になっただろう。ところがこの時は、不意に、このほっぽり出された男が羨ましくてたまらなくなったのだ。

俺は自分の話し方が、ぎくしゃくと強張っており、本からの受け売りの妙に凝った言葉だということ、まさに≪まるで本を読んでいるみたい≫にしか、話せないことは知っていた。しかし俺は、そんなことは気にしていなかった。こんな話し方でも人に通じるはずだし、むしろこの書物臭いところがいっそう効果的に働くはずだと感じていた。ところが今、いざその効果が出てみると、これは不意に怖気づいた。いまだかつて一度として、本当に一度として、これほどの絶望を目の当たりにしたことはなかったからだ。女はうつぶせに・・・
(207-208ページ)

俺は、ふとこんなふうに考えたものだ。<なんてわずかな言葉で、本当にわずかな牧歌詩で(しかもその牧歌詩たるや、偽りの、本からの引き写しの、作り物なのに)、人の心をたちまち己の思い通りのほうへ向けることができるものか!これこそが、処女性というものか!新鮮な大地というものなのだ!>
(221ページ)

「私、あそこから……完全に……出てしまいたいの」彼女は、なんとか沈黙を破ろうとして話し始めたのだが、可哀相に!まさにこんな話題だけは、ただでさえ馬鹿げたこんな瞬間に、ただでさえ愚か者の俺のような男に切り出してはいけなかったのだ。俺は彼女の気の利かなさ、不必要な率直さが哀れで、思わず心が疼きだしたほどだ。しかし、なにか醜悪なものが、たちまち俺の中でその哀れみを跡形もなく押し潰してしまった。のみならず、もっとやってやれ、なにもかも、どうにでもなるがいい!と俺を焚き付けたのだった。さらに五分が過ぎた。
(241ページ)

とにかく彼女には、消えてもらいたかった。俺は、≪平穏無事≫を欲していたのだ。不慣れな≪生きた生活≫にすっかり押し潰されて、息をすることさえ、苦しくなってしまったのである。
ところが、さらに数分が経ったのに、彼女は、一向に立ち上がる気配もなく、まるで気を失っているかのようだった、俺は恥知らずにも、そっと衝立をノックして、催促してみた……。彼女は、不意に身震いすると、その場から跳ね起き、慌てて自分のスカーフだの帽子だの毛皮のコートだのを掻き集めにかかった。まる俺の元からどこかへ逃げ出すかのように……。二分後、彼女は衝立の陰からゆっくりと姿を現すと、辛そうな眼で俺を見た。俺は憎々しげににやりと笑ってみせたが、それも無理やり、体裁のために、取り繕った笑いだった。それから彼女の視線から顔を背けてしまった。
「さようなら」彼女は、戸口に向かいながら、そう言った。
俺は、不意に彼女に駆け寄ると、その手を掴み、握った手を開かせ、何かを押し込み……それからまた握らせた。その後すぐさま、くるりと背を向けると、慌てて部屋の別の隅に飛び退いた。少なくとも、俺はなにも目に入れたくなったのだ。
(253-254ページ)

俺たちは、人間であることさえも――本物の自分固有の肉体と血液を持った人間であることさえも、重荷に感じている始末だ。これを恥じて、屈辱であるとみなし、なにやらいまだかつて存在したことのない普遍的な人間なるものになろうとしている。俺たちは死産の児だ。もうだいぶ前から、生きた親たちから生まれているわけではないし、それがますます自分で気に入りつつある。いよいよ親しみが増してきたわけだ。じきになんとかして理念から生まれる方法も考えつくことだろう。しかし、もうたくさんだ。もうこれ以上、≪地下室から≫描き続けたくはない……。
(261ページ)